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2018年8月13日 (月)

二流文化の自由と平和 ( ノンフィクション、エッセイ )

大阪桐蔭と沖学園の試合を見てる。大声でわめき、騒ぎ、驚いているのはアナウンサーと評論家のみで興ざめする。球児たちを美化せんと懸命だ。うんざりすることもある。評論家と職業のなかに経済評論家というのもある。やはり、わめき、騒ぎ、危機感をあおっているが、スポーツ評論と同じように的中したことはない。
 子供の頃に観戦してた高校球児たちはピンチになったり、バッターボックスに立つと必ず胸に手をあてていた。胸のなかに<お守り袋>が入っているのである。母親からであろうか、恋人からであろうか、わかるわけがない。アナウンサーは神が守護してるかのように大きな声でさけぶ。
(甲子園には神がいるのか)
 と、喚いている。そのような野球の神が居るのならば炎天下で戦わずしてじゃんけんをして勝敗を決めるのもおかしくはない。そして優勝チームは決まっていたと「野球の神が言ってる」とも喚き騒ぐこともできる。
 
 この世紀は大人の文化が喪失し、低年齢化、低能児化のお遊びのじだいのようになってしまった感をうける。大人が大人として生きていないからであろう。それを平和だとか自由だというのならば、ワタシは要らない。自由も平和も要らないが信頼できるものが欲しい・広告宣伝だけが自由で平和な時代が気が狂ってるように映る。そんな世界を薄汚いいっさんとおばはんがつくっている。
 公共放送は視聴者を愚弄してるという事実認識もないかのようだ。一流プレイヤーを評するレベルでない放送が流れている。くだらねーアホな二流三流の芸人たちのコマーシャルのみが一流のようだ。
ブログ、掲示板も自己宣伝、自慢バナシをするためのもののようだ。
 

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